”隣の芝生は青い”というが、自分自身がうまくいってないときや落ち込んでるときなんかは特に他人が羨ましく思えるものだ。それは時に行き過ぎて妬みや嫉みになることもある。

ところで、完璧な人間など存在するだろうか。何の問題も不満もない人間を一人でも知っているだろうか。断言できるが、そんな奴はいない。いるはずがない。

人類がここまで発展したのは我々が欲深いからである。現状に満足してしまったら、そこで生物としての進化が止まってしまう。つまり、我々は生まれながらにして満足することを知らない罪深い生き物なのだ。いつもニコニコして健康で裕福な人とて例外ではない。一見幸せそうな人間にも何かしらのコンプレックスや悩みがあるのだ。彼らと”私達”の違いは、実のところ「幸せなふり」が上手いかどうかでしかないと思う。

「幸せなふり」とは何か。それは自分の抱える問題をひた隠し、あるいは見てみぬふりをして、その存在を頭の中から消し去ることだ。「私は幸せだ」と虚勢を張り、堂々と王様のように振る舞うことだ。そこに問題の大小は関係がない。

このように考えることで、全ての人間が同じ土俵に立っているように感じてくる。「あの人は幸せなふりが上手い」とか「この人はすごい下手だな」などと考えるようになる。「幸せなふり」とは詰まるところ気持ちの問題なので、人そのものに上下を感じなくなるのだ。

すると、どうだろう。なんだか心に余裕が出てきた。勝手に自分の中でカーストを作っていたことが馬鹿馬鹿しくなってくる。そして、なにか新しく問題が起きても動じない。なぜなら、いくらトラブルを抱えようが悩みの種はどうせ尽きやしないのだ。ならば「幸せなふり」をして気を楽に生きていけばいい。

ただ前述したように『幸せなふり』理論を受け入れたところで人間である以上、現状に満足することはないし、ましてや何も問題は解決しない。この考え方のキモはストレス耐性に強くなることだ。人に上下や優劣をつけないので気持ちが楽になる。

「皆、悩みを抱えている」「人生は悩みの連続である」というのは、なんだか悲観的で厭世観に満ちて聞こえるが、「幸せな人生を期待しない」というのは「将来」に裏切られない事を意味する。『幸せなふり』理論とはどのように人生の問題と接するかを覚悟しておく考え方であり、気の持ちよう次第で「マシな人生」を簡単に過ごすことができるという思考法なのだ。その意味で実際にはポジティブでクヨクヨしない楽天的な「生き方」だと思っている。

さて、『幸せなふり』をして気が楽になったところで最近よく聴いている音楽を紹介しておこう。filousのBicycleという曲なのだがオシャレポップで爽やかなのに少し物悲しい。ゴールデンウィークに終わりにはピッタリだ。