インターネット上の文章には「一見きちんとした文章だが、読んでみると何も残らない」ものがある。なにやら、説得力がある雰囲気はあるのだが、「結局なにがいいたいの?」と感じさせる不思議な文章だ。特にオンラインメディア、有名ブロガーによく見られるので、プロのライターなどが書いている事が多い(と、思う)。

以外にもあれは高等テクニックらしい。試してみたのだが、真似しようとしてもなかなか同じようにできない。ああいう文章が書ける事を文章力があると言うのだろうか?それはそれでなんだか「文章が上手い人」に失礼かもしれないが、素人が行き当たりばったりに書いた文章とは一味違うのも確かだ。なんだろう、見てもない映画の内容を、さも見たかのように解説できる能力を彼らは持っているのだ。

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文章における、一本の線

僕のような素人が中身の無い文章を書いてしまうときは、大抵、結論や主張が定まっていない時が多い。見切り発車で「えいっ」と、とりあえず書き始めてしまうのだ。だからタコの足のように四方八方へ話題が散在する。見返してみると、まとまりのない「ザ・頭の悪そうな文章」が出来上がっているという塩梅だ。

ところが、上手い人が中身の無い文章を書くと中身が無いがムダもないものになっている。着地点は定まっていないが、「話の流れ」はしっかりとあるのだ。つまり、彼らは俯瞰的にストーリーを考えているのであって常に取捨選択が行われている。その点、僕が書くと起承転結が曖昧なものが多い。これじゃあ、文章が破綻するわけだね。

作文が嫌いだった

思い返してみると、小学生のころ作文が苦手だった気がする。しかも完成するのが遅い。というのも、頭のなかで大まかなプロットを作るのが得意ではなかったのだ。個々のエピソードや簡単なまとまりは出てくるのだが、それぞれを並び替え、リンクさせる能力に乏しかったのだと思う。

たぶん、作文の上手い人は自分の中に作文の雛形が何パターンかあって、それに当てはめていたのではないだろうか。今にして思うとなんだかズルいなあ。でも、そういう能力ってどこで覚えたんだろう。そういえば、過去に、朝日新聞の天声人語を毎日ノートに書き写すという行事(?)がクラスにあったという人がいた。それを聞いた当時は「写経かよ、悟り開いちゃうね。」なんて冷ややかだったがする。でも、短くまとまったコラムに触れるって結構大切なんじゃないだろうか。その学校では新聞を書き写すことで時事問題を刷り込むと共に「文章の作り方」も教えていたのかもしれない。

考えてみれば大昔の勉強法は論語だの大学だのをひたすら書き写して暗記することだったんだろうし、やっぱり「写経」もあながちバカにできない。それに上手い文章に「オリジナリティ」は要らない。そこが詩やポエムと違うところだ。言わばテクニック論だね。

説得力の正体

となると、冒頭の根拠のない説得力の正体が見えてくる。文章の上手い人が書く中身の無い話とは、理路整然とまとめられた雑文なのだ。中身が無い事と整理されていることは矛盾しない。自分でも何が言いたいのかよくわからない事は誰にだってある。大事なのはそのモヤモヤした感情の過程を連続性を持って整理すること。そして、それを表現するためのテクニックだ。僕のように文章を書くことに慣れていない人は論点を箇条書きにでもして、「自分のフォーマット」でアウトプットすれば少しはまともになるかもしれない。たとえ中身が無かろうとも。